2012年4月20日金曜日

宇宙戦艦ヤマト2199 第1章を観て(2)

宇宙戦艦ヤマト2199のメ号作戦の描写についてネットにいろいろな考察が出ています。
1)陽動作戦だったのか?
2)陽動作戦だったとして下のものはそのことを知っていたのか?
3)駆逐艦「ゆきかぜ」艦長 古代守の行動の理由と是非。

これらについて私見を。
1)まず、メ号作戦の作戦目的について。
これは、イスカンダルからの使者にガミラスの制空権を突破させるための陽動作戦だったのでしょう。「アマテラスはまだか?」という沖田さんの台詞がそれを示しています。

2)下の者は 作戦目的が陽動だったことを知っていたか?
「キリシマ」が地球帰還後のシーンで南部が「聞いた話だが、メ号作戦の目的は陽動で下には秘密にしていた」らしい、との台詞がありますから、設定・脚本としては
艦隊司令部と各級指揮官(各艦長など)以外には秘密だったということでしょう。

軍隊では、作戦前に各級指揮官艦長クラスに対しては作戦目的と行動計画についてブリーフィングを行います。そうしないと、旗艦が撃沈されたり通信機能を喪失した場合や、指揮官の戦死という事態に陥った際、作戦を継続できなくなるからです。また、各艦レベルでさまざまな決断を求められる状況が考えられますから、作戦目的と全体の行動計画を理解していないと各艦の行動が支離滅裂になり早々に作戦が破綻するからです。また、各艦の艦長は帰艦後には各科長・士官クラスには作戦目的や行動計画について徹底します。理由は、先とおなじ。指揮権継承の問題。

3)駆逐艦「ゆきかぜ」艦長 古代守の行動の理由と是非。
火星でイスカンダルからのカプセル回収成功の連絡を受けた沖田さんが「作戦中止、地球へ帰還する」との命令を発出したにもかかわらず、「ゆきかぜ」は撤退を拒否。その際、沖田さんは「作戦は成功した」と古代に告げています。ということは前述のとおり古代は作戦目的を知っていたと考えられます。
それでも古代は撤退を拒否し、ガミラス艦隊に突入します。
旧作では「ここで逃げたら死んでいった友達に顔向けできない」という理由でしたが、2199では「キリシマ」の撤退を援護するためのようにも受け取れます。ネットで多くの方が古代守の「あなたこそ地球に必要な人だ」という意味の発言を証拠にあげています。

旧作では撤退=逃げる(作戦放棄)だったので 古代守の心情もわからないでもないですが、艦隊司令官の正式命令が出ているのに従わないのは抗命罪になる上、艦と乗員の命を「私」する行動ですから、古代守を軍人としては評価できません。同じ理由で史実の宇垣特攻についても私は評価しません。

一方、2199では「キリシマ」の撤退を成功させるための撤退援護という、作戦目的に沿った行動としての評価が可能なように変更されたとみるべきです。
できれば、はっきり「撤退を援護します」くらいの台詞を加えてほしかったし、「ゆきかぜ」の行動が軍事合理性に基づくものだとわかる演出がほしかった。

たとえば(以下 脳内妄想)、
一旦、「キリシマ」に従って戦場を離脱したが、「キリシマ」が被弾の結果、全力発揮ができず、追撃してくるガミラス艦隊を振り切れない。
沖田は「ゆきかぜに発信。「ゆきかぜ」は火星に先行、ウズメを回収後地球へ帰還せよ」との命令を発出。
ゆきかぜ艦橋で命令をうけ、困惑した顔をあげた古代守に対し、笑顔でうなずきを返すゆきかぜ乗員。古代は一言「みんな、すまない」とつぶやくと、「針路変更180度!最大戦速即時待機!、合戦準備!」と次々に命令を発する。
「ゆきかぜ」は単艦回頭し、 「ワレ コレヨリテキカンタイニトツニュウ、ユウグンテッタイヲエンゴセントス。サラバ」と発行信号を発しながらガミラス艦隊に突入、絶妙の操艦と砲雷撃、魚雷が尽きた後も襲撃行動を偽装することでガミラス艦に退避運動を強要することで、足止めし「キリシマ」撤退を成功させる。
とかなんとかのシーンがあった方がよかった。
駆逐艦一隻の喪失で主力艦とヤマト計画の重要人物沖田や多くの人命を救えることを考えると合理的な判断になる。
エンガノ岬沖海戦での駆逐艦「初月」の行動を彷彿とさせるシーンにしてほしかったなぁ...

宇宙戦艦ヤマト2199 第1章を観て(1)

ヤマト2199を観て旧作にあった悲壮感、絶望感が薄れているように感じた一人です。
'74年版のヤマトのスタッフは、戦時中に少年期を過ごした方が参加しているし、従軍経験者がまだまだ多く存命だったことから、多くのスタッフが直接間接的に戦争体験を持てた世代でしょう。
そのことを考えると、旧作とヤマト2199を比較した時に感じる時代の空気感の差は、
「戦争体験がない人が作ったから、作品中の時代の空気が軽くなってしまうのは仕方がない」ことなのか?
しかし、実体験がないと作家が務まらないなら、推理小説家は殺人を犯さなければならなくなるし、SF作家は宇宙を経験しなければならないので、それは違うのだろう。
実体験があろうがなかろうが、結果的に、どれだけ「らしく」描けるか?ということだ。そして、時代の空気、人々の気分が其の作品にとって重要なら、作品中にその時代、社会を再構築してみせなければならないはず。
そのとき、自分が体験していない事柄や時代を観客が納得、理解できる形で描けたかは、作家がどれだけその時代について「勉強」「研究」したか、に尽きるだろう。
その時代の文物にふれ、同業者の過去の作品に触れることで、実体験の不足をどれだけ補ったか?ということだ。

確かに、ヤマト2199は メカのディテールも細かく描きこまれているし、戦闘シーンも迫力があるし、旧作で頻繁だった作画崩壊も見られない。かなり楽しめる作品に仕上がっているように思う。
しかし、旧作にあった悲壮感、絶望感の描写は不要とばかりに取り除く一方で、メカのディテール設定やアクションシーンには腐心し、女性キャラクターを追加するのはいいが、なぜかアホ毛や巨乳、パロディ(オマージュと呼ぶには品がないと感じる)やギャクシーンを散りばめるなど、疑問に感じる部分も多い。

数日前にも、ヤマト2199について書いたが、メカマニアのアニオタが自分の見たかったシーンをつなぎあわせた壮大なパロディを作っているように思えるのが、非常に残念である。