F-toysの1/144 四式戦闘機「疾風」。今回は、基本的に素組です。
キ84 四式戦闘機「疾風」飛行第47戦隊 「桜」隊(旧第三中隊)長 波多野貞一大尉機 |
塗装は、飛行第47戦隊 「桜」隊(旧第三中隊)長 波多野貞一大尉機(キ84甲 45号機)です。
波多野大尉は、ほかにキ84 66号機も使用したようですが、昭和20年2月16日の米艦上機迎撃戦には このキ84甲 45号機で参加しています。
なお、波多野大尉は 昭和20年7月28日の空戦で戦死されています。
【四式戦闘機「疾風」[キ84]】
世界の傑作機 No.19 陸軍4式戦闘機「疾風」P.10より
『戦局が一段と不利になってきた昭和19年の夏、大きな期待を担って登場し、日本陸軍の新主力戦闘機として活躍した4式戦闘機「疾風」は、稼働率などの点では必ずしも好評とは言えなかったが、当時世界最強の戦闘機と言われていたノースアメリカンP-51ムスタングにも勝るとも劣らぬ実力を秘めた世界屈指の高性能戦闘機であり、アメリカ側では、「第二次大戦日本戦闘機のNo.1」と絶賛、零戦より高く評価している。』
最高速度 624Km/h(高度6,500m) 集合式排気管装備の試作機による数値
上昇力 5000m/6'26"
発動機 ハ45-21(離昇1,825馬力)
武装 キ84甲:20mm機関砲(ホ5)×2、12.7mm機関砲(ホ103)×2
キ84乙:20mm機関砲(ホ5)×4
生産数 約3500機
昭和16年12月29日 陸軍より中島飛行機に試作内示
昭和17年 4月 正式な試作指示
昭和18年 3月 試作1号機完成
昭和18年10月 増加試作機による実験中隊を編成
昭和19年 3月 5日 増加試作機により最初の実戦飛行隊 飛行第22戦隊が編成される
昭和19年 3月末 四式戦闘機として制式採用
【飛行第47戦隊】
飛行第47戦隊の前身は、昭和16年11月に編成された 独立飛行47中隊。
「かわせみ部隊」 「新選組」とも呼ばれたこの部隊は、制式採用前のキ44(後の2式単座戦闘機「鍾馗」) 増加試作機 9機で編成され、即南方に進出し、仏印、マレー、ビルマと転戦した。
昭和17年4月18日のドーリットル空襲をキッカケに、首都防空の強化が図られ、独飛47中隊は同17年4月25日に現地を出発、5月上旬に内地へ帰還。
当初は千葉県松戸飛行場、同年8~9月にかけて柏飛行場へ移り、さらに翌18年3月には調布飛行場へと、目まぐるしく移動した。
さらに、有力防空部隊として期待された同隊は、昭和18年10月3日付で3個飛行中隊からなる飛行第47戦隊(定数54機)に改編され、他の部隊と同居する調布飛行場では手狭なため、またもや、新造された成増飛行場へ移動。
同隊の本土防空戦の初出撃は、成増飛行場から上がった、19年11月1日のB-29(実際は偵察型F-13A)の関東初侵入である。この日、帝都初侵入のB-29を撃墜しようと47戦隊以下第10飛行師団の戦闘機隊は撃墜はおろか、高度1万メートル以上を飛ぶB-29の補足にすら失敗したため、各防空戦隊に空対空特攻隊「震天制空隊」の編成が命令される。
昭和19年11月24日のB-29による東京初空襲時、47戦隊の見田伍長(19歳)が、銚子上空にて最初の体当たりを果たす。これが、帝都防空戦隊最初の特攻攻撃となる。
その後も空対空特攻は続き、2月下旬までに47戦隊では5名が特攻死、3名が撃墜死する。
昭和20年2月16日の米艦上機による日本本土初空襲において、同隊は果敢な迎撃戦を展開、千葉県八街市上空や群馬県館林上空の空戦で敵機18機撃墜という戦果をあげた。
3月以降、B-29の作戦が夜間爆撃に変更されたこともあり、
5月27日、宮崎県都城西飛行場(*1)へ移動し、以後、沖縄方面へ出撃する沖縄作戦の特攻隊・振武隊の掩護任務につく。
6月23日 沖縄陥落
7月18日、戦隊は本土決戦にそなえ、山口県の小月飛行場へ移動。
7月28日、米艦載機の急襲により6機が撃墜される。
終戦直前の8月14日(!)、豊後水道上級で6機のP-38を8機のキ84で迎撃、損失2機でP-38 5機を撃墜する。
同隊の特筆できる点として、他隊では低稼働率が悩みの種だった、キ44、キ84を装備しながら非常に高い稼働率を維持していたことがあげられる。特に、他隊では40%台という低い稼働率になかされたキ84を、定数は常に100%稼働を維持していたという。
(*1)この都城西飛行場は、私の母校 都城西高校の真向かい、現在の陸上自衛隊都城訓練場のあたりに位置していました。
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